きのう 転んだ
コンクリートの上で
野球のホームベースに突っ込む野球少年のように転んだ
ジョギング中
暑かったからか
疲れていたからか
一瞬だけ「気」が抜けた
転ばないためには
一瞬も気を抜けない と思った
今日ジョギングをしている間
「転ばないように」と唱え続けた
暑くて疲れだすと 意識が少しだけぼんやりする中
「転ばないように」をできるだけ長く考えた
無事に転ばずに終わった いつもより「気」は疲れた
どうしてそこまでして走るの?
そう思う人もいるだろうか
特に 意味はない
実は 2キロ地点に
パイプの椅子に座りながら
タバコを吸っているおじいちゃんが
手を振ってくれるのです
手を振りかえすのが わたしの日課です
ここに引っ越してきて
一番最初にできた心のお友達です
パイプの椅子には
杖が立てかけられているので
おじいちゃんは走れないかもしれません
走るわたしに手を振ってくれることが
どれだけ優しい行為でしょうか
少なくとも 今のわたしには
「自分にできないことができる人に賞賛をおくること」はできても「これまでできていたことができなくなった時にそれを裕にこなす人に賞賛がおくれるだろうか」と考えると 少し難しいような気がします それだけ心は狭いのです
前の仕事で
「豊かな心」と何度も口にした
豊かな心は狭くない心?
今の仕事でも何度も
「豊かな社会」と口にして
「豊か」ってなんだろうと思う
さて「豊かさ」とは?
誰も議論していない
豊かさに定義がないから豊かという言葉が豊かであるのかもしれないと思いました
意味のないことに意味を見出すことよりも
意味のないことに夢中になれる才能の方が
わたしにはかっこいいことのように思えます
意味は無理につくるものではない