楽しかった は
写真を見るとわかることがある

それは
23歳の時の登山のデート

当時の私は そのとき登山をしたくて
「登山したい」「登山したい」って周りの人に言っていたら
同い年の登山をする男性を紹介してもらえることになった
二人でどこの山を登るか話したけど
わたしは どこの山がいいかなんてわからなかったから
まかせっきりだったと思う
山に登りたいです
体力はあります
伝えたのはそれだけだったと思う


マラソンをしたことがあるからわかるけど
人にペースを合わせるって すごく難しいことで
わたしは私のペースしかできなかったから
たぶん私に全部合わせてくれていたんだなと今は思う

楽しかった記憶をひもとくと
楽しかったと思っているのは
私が私以上に私の瞬間だったから、ということ
悪く言うと わがまま なんだけど
こんな社会で生きているとさ
自分が自分じゃなくなってしまうことがあるね
自分を表現することを忘れてしまう社会
私のこのデートのときは
確かに 自分だった と思うんだ



ここでデートをした人とは もう8年は会っていないんだ
おそらく今あっても ぎこちない挨拶しかできないと思うんだけど
もしまた会えたら あの時はありがとう って言いたいんだ

自分が自分以上に自分でいられる場所や人が 世界のどこかにいて(あって) それはひとつとは限らなくて 永遠に続くものでもなくて 誰かの一日に自分が刻まれることで 私の一日に重要人物Aとして登場いただくことであって すれ違っているのに出会えないかもしれないということであって そして またもう一度は訪れない ということ
だから 今日を大切に生きたいなって思うんだ
もうすぐ33歳
10年前の自分とはまた違うデートを また違う人と どこかで